前の文章
(心理状態について)
しかし、こうしたことを社会で取り扱い、解決すべき問題として提起するとなると、どのような方法をとるべきなのかといった問題が生じます。
集ストに関わったと見られる人物を調べれば、関係性を明らかになるでしょうから、存在は証明できるでしょうが、解決すべき問題として取り扱うとなると、他の犯罪などでもそうですが、非常な社会的コストが生じるわけです。
例えば漫画家などが編集に強要されて集スト的な漫画を描かされたとき、それをどうやって確かめるのでしょう。もし集ストが問題として認められれば、関係性としては、漫画家の立場が向上して意見が通りやすくなるかもしれませんが、しかしそのくらいのことです。
職場での嫌がらせもそうですが、そういったことはむしろ、現在の日本社会、というか、世界全体で必要な技術として認められているように思えます。
アメリカなどでは社会問題として提起されるくらいには倫理的態度があるようですが、日本においては、いやアメリカでもそうだと思うのですが、むしろ嫌がらせができないなら他にどうすればいいのか分からず、困ってしまうという人がほとんどなのではないでしょうか。
一体どのあたりで線引きすべきことなのか分からないのですが、まあ、そのようなことは私が考えるべきことではないのかもしれません。
(心理状態について)
しかし、こうしたことを社会で取り扱い、解決すべき問題として提起するとなると、どのような方法をとるべきなのかといった問題が生じます。
集ストに関わったと見られる人物を調べれば、関係性を明らかになるでしょうから、存在は証明できるでしょうが、解決すべき問題として取り扱うとなると、他の犯罪などでもそうですが、非常な社会的コストが生じるわけです。
例えば漫画家などが編集に強要されて集スト的な漫画を描かされたとき、それをどうやって確かめるのでしょう。もし集ストが問題として認められれば、関係性としては、漫画家の立場が向上して意見が通りやすくなるかもしれませんが、しかしそのくらいのことです。
職場での嫌がらせもそうですが、そういったことはむしろ、現在の日本社会、というか、世界全体で必要な技術として認められているように思えます。
アメリカなどでは社会問題として提起されるくらいには倫理的態度があるようですが、日本においては、いやアメリカでもそうだと思うのですが、むしろ嫌がらせができないなら他にどうすればいいのか分からず、困ってしまうという人がほとんどなのではないでしょうか。
一体どのあたりで線引きすべきことなのか分からないのですが、まあ、そのようなことは私が考えるべきことではないのかもしれません。
実害がないにも関わらず生活に困難を感じるというのは、理不尽なように思えますが、ある意味では、何かされたわけでもないのに情報を得られているという理由で脅威を感じるというのは、人間存在の社会的機能の構造的欠陥とでも言うべきなのかもしれません。
例えば、人と人との関係において私たちは、現れによって互いの情報を交換したり、作り出したりしていますが、その際に障害になると感じられるのです。
アメリカでインターネットに情報が保存されるのを脅威に思って排除すべき権利があるという社会問題がありましたが、それと同じことなのかもしれません。
誰にだって知られたくないこと、見られたくないことはあります。
恥という観念などもそうです。
けれども、実行している人たちにとっては、合法的にお宅訪問するヤクザが、訪問のたびにお供の人数を増やしたりしてプレッシャーを与えているというくらいのことなのかもしれません。
例えば、組織あるいは個人が利益に反する活動をする人に対して嫌がらせをすることは、TV番組などを見ても分かるとおり、社会では当然のことです。
しかし、例えば、パネルで本人の代理をしているところに橋本市長が来たからといって「薄っぺらくなって」などと言ったりすることを禁止できるでしょうか。
いくら大勢の人がそういうことをして怒らせようとしたとしても、その一つ一つを禁止させるというのは、法律だろうが話し合いでやろうが、大変なことです。
まして、組織行動ならやめるわけはありません。だから無視して気にしないようにするのが当然、となるのですが、他に人間関係が無い人間にとってはつらいことです。
結局、現れとして人と話す際には、そのことばかりになるからです。
このように言いましたが、しかし、実害が無いとは言ってもそれは外面的な見せかけで、実際は私の情報を得たり、それを伝えるというのは、私の行動や性格を予測し、婉曲に活動を管理することを可能にしますし、実害を与えようと思えば何時でも与えられるということでもあります。私の経験から言えば、実際にそうだったと言えます。
ということは、それを脅威と思うことは理不尽なことではなく、やはり当然の感覚なのでしょう。実際、農協の大島・寺田の二人は命の危険について仄めかしたりしていました。
例えば、人と人との関係において私たちは、現れによって互いの情報を交換したり、作り出したりしていますが、その際に障害になると感じられるのです。
アメリカでインターネットに情報が保存されるのを脅威に思って排除すべき権利があるという社会問題がありましたが、それと同じことなのかもしれません。
誰にだって知られたくないこと、見られたくないことはあります。
恥という観念などもそうです。
けれども、実行している人たちにとっては、合法的にお宅訪問するヤクザが、訪問のたびにお供の人数を増やしたりしてプレッシャーを与えているというくらいのことなのかもしれません。
例えば、組織あるいは個人が利益に反する活動をする人に対して嫌がらせをすることは、TV番組などを見ても分かるとおり、社会では当然のことです。
しかし、例えば、パネルで本人の代理をしているところに橋本市長が来たからといって「薄っぺらくなって」などと言ったりすることを禁止できるでしょうか。
いくら大勢の人がそういうことをして怒らせようとしたとしても、その一つ一つを禁止させるというのは、法律だろうが話し合いでやろうが、大変なことです。
まして、組織行動ならやめるわけはありません。だから無視して気にしないようにするのが当然、となるのですが、他に人間関係が無い人間にとってはつらいことです。
結局、現れとして人と話す際には、そのことばかりになるからです。
このように言いましたが、しかし、実害が無いとは言ってもそれは外面的な見せかけで、実際は私の情報を得たり、それを伝えるというのは、私の行動や性格を予測し、婉曲に活動を管理することを可能にしますし、実害を与えようと思えば何時でも与えられるということでもあります。私の経験から言えば、実際にそうだったと言えます。
ということは、それを脅威と思うことは理不尽なことではなく、やはり当然の感覚なのでしょう。実際、農協の大島・寺田の二人は命の危険について仄めかしたりしていました。
つまり、私たちはそれが脅威的であると認識することはでき、実行するほどには優れているけれども、実際にそれを規制したり禁止したりする程度には有能ではないということです。
そう言うと、実際の社会生活ではそこまで無能ではなく、言外のやり取りなどの文脈や、規制や禁止の枠外で解決されている問題と思うかもしれません。
しかし、私の立場からすれば、相手が誰かも分からず、マスコミやインターネット、娯楽作品などを通じて一方的にメッセージを仕掛けてくる人たちと、相互的にコミュニケーションが取れているとは思えません。
実際、集ストに関わっている人の多くは、自分がやったこと以外のことで言われる筋合いはないという態度の人ばかりですし、私の親のようにコミュニケーション様式を操作されて、適切なときに言ってほしいことを言うように誘導されている人だったりします。
越路金属の古矢氏などにいたっては、自分でやったことさえ言われてやったことだから自分には関係ないと思い込んでいます。
けれども、こうした態度は仕事に関わる人間として一般的にありえないことではないでしょう。
組織行動の一巻としてストーカーが行われる場合、目的と行為自体は、ストーカーという目的に束縛されない状態で設定できると思います。
そのように意図と行為と実行を分担した活動を、統合的に管理している人たちがいると思わせるに十分な状況を演出するのが、私が受けている集ストというものだと思います。
そう言うと、実際の社会生活ではそこまで無能ではなく、言外のやり取りなどの文脈や、規制や禁止の枠外で解決されている問題と思うかもしれません。
しかし、私の立場からすれば、相手が誰かも分からず、マスコミやインターネット、娯楽作品などを通じて一方的にメッセージを仕掛けてくる人たちと、相互的にコミュニケーションが取れているとは思えません。
実際、集ストに関わっている人の多くは、自分がやったこと以外のことで言われる筋合いはないという態度の人ばかりですし、私の親のようにコミュニケーション様式を操作されて、適切なときに言ってほしいことを言うように誘導されている人だったりします。
越路金属の古矢氏などにいたっては、自分でやったことさえ言われてやったことだから自分には関係ないと思い込んでいます。
けれども、こうした態度は仕事に関わる人間として一般的にありえないことではないでしょう。
組織行動の一巻としてストーカーが行われる場合、目的と行為自体は、ストーカーという目的に束縛されない状態で設定できると思います。
そのように意図と行為と実行を分担した活動を、統合的に管理している人たちがいると思わせるに十分な状況を演出するのが、私が受けている集ストというものだと思います。
外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤氏の本を読んでいたときに、新聞などで対象に監視を仄めかすというのは、そういう仕事をしている人間には当たり前のこととあったのですが、特に解決すべきこととは書いていませんでした。
当然のこととして扱うのが自然なことなのです。
そういったことが何もない一般人に対して行われた場合、例えば私の場合ですが、何か良くわからない人たちが私の情報を取っているということは分かるのですが、目的も何も分からない、ということになります。
しかし、私の例をとってみれば分かるとおり、10年以上もずっと続けて同じようなことをやってきているし、どうしても監視を知らせなければならないというわけで、かなり思い切った仄めかしばかりなので、私のようにそれが当たり前で特に問題のないものとして扱うつもりでなければ、やはり気味が悪いように思うでしょうし、実際私もそれが問題として捉えられるように挑発され、誘導されました。それどころか、けしかけられすらしています。
しかし、そういったことを他人に話したからと言ってどうなるでしょう。結局のところ、問題として取り扱うことが困難な出来事を解決すべきこととして扱うように迫られた人間が執るべき行動など、たかが知れているのではないでしょうか?
むしろ、そうしたことに怒りを覚え、見て見ぬ振りをしない人たちこそ、無意味な活動に時間を費やされ、社会的に破滅することになると思いました。私はずっとそういうふうに考えていたのです。
たぶん、集ストの人たちの考え方が伝染したということもあるでしょうが、割と自然な対応のひとつだと思います。
しかし、このように考えているからと言って私の生活が有意味なものになったかというと、そうではなく、むしろ集ストのことを毎日意識させられるか、彼らのことで頭がいっぱいになって有意味な活動ができなくなりました。
無視しよう、忘れようと思っても、いちいち思い出すようなことばかりしてくるので、結局は問題として向き合わされることになります。無視することはあまり現実的な対応ではなくなってくるのです。
そして、それでも無視しようと現実逃避的に無意味な活動に没頭し、我を忘れることに時間を費やすことになっていたのが現状です。
彼らが私に集ストを意識させるためかと思いますが、私がネトゲで遊んでいると彼らは「現実逃避している」というようなことを言ってきました。ネットで見た話ですが、酒を飲む人も多いようです。
私は本を読むのが好きなのですが、そのことを何故か知っていた沼尻は「ね、本を読むと嫌なこと全部忘れちゃう」と言ってきました。
当然のこととして扱うのが自然なことなのです。
そういったことが何もない一般人に対して行われた場合、例えば私の場合ですが、何か良くわからない人たちが私の情報を取っているということは分かるのですが、目的も何も分からない、ということになります。
しかし、私の例をとってみれば分かるとおり、10年以上もずっと続けて同じようなことをやってきているし、どうしても監視を知らせなければならないというわけで、かなり思い切った仄めかしばかりなので、私のようにそれが当たり前で特に問題のないものとして扱うつもりでなければ、やはり気味が悪いように思うでしょうし、実際私もそれが問題として捉えられるように挑発され、誘導されました。それどころか、けしかけられすらしています。
しかし、そういったことを他人に話したからと言ってどうなるでしょう。結局のところ、問題として取り扱うことが困難な出来事を解決すべきこととして扱うように迫られた人間が執るべき行動など、たかが知れているのではないでしょうか?
むしろ、そうしたことに怒りを覚え、見て見ぬ振りをしない人たちこそ、無意味な活動に時間を費やされ、社会的に破滅することになると思いました。私はずっとそういうふうに考えていたのです。
たぶん、集ストの人たちの考え方が伝染したということもあるでしょうが、割と自然な対応のひとつだと思います。
しかし、このように考えているからと言って私の生活が有意味なものになったかというと、そうではなく、むしろ集ストのことを毎日意識させられるか、彼らのことで頭がいっぱいになって有意味な活動ができなくなりました。
無視しよう、忘れようと思っても、いちいち思い出すようなことばかりしてくるので、結局は問題として向き合わされることになります。無視することはあまり現実的な対応ではなくなってくるのです。
そして、それでも無視しようと現実逃避的に無意味な活動に没頭し、我を忘れることに時間を費やすことになっていたのが現状です。
彼らが私に集ストを意識させるためかと思いますが、私がネトゲで遊んでいると彼らは「現実逃避している」というようなことを言ってきました。ネットで見た話ですが、酒を飲む人も多いようです。
私は本を読むのが好きなのですが、そのことを何故か知っていた沼尻は「ね、本を読むと嫌なこと全部忘れちゃう」と言ってきました。
(内省)
こういう風にいろいろ考えていたけど、結局のところ、越路の山本が言っていたように「茨城の条例で盗撮や盗聴はだめ」なんだし、倫理的にも集ストは在ってはならない行為というのが社会的な通念なのだろう。
一体なぜこんな白黒はっきりしているようなことについて「決着をつけてやる」と思い、戦わなければならないのかと苦痛を感じる。
しかも、相手は自分たちが悪いことを分かっていて、自己正当化のためにいろいろなことをいって取り繕うのだが、その理由は利益でも組織でもなく、単にそういうことができるからという事実だけに帰結するのである。
それを問題にするのは私が行うべき範疇の話ではなく、私がやるべきことは単に被害者面することだけなのかもしれないが、そもそもやるべきことがたくさんあって、構造も複雑化していく一方の現代社会において、こういう嫌がらせをわざわざ作り出して世の中をいちいち面倒にしていこうという気持ちは本当に理解できない。
いつも思っていることなのだが、集ストということも向こうが言ってきたことなんだし、シナリオを書いてあるのなら全部自分たちでやったらいいのではないかという気がする。こういう気持ちから社会における悪の効用だとか、人間性の全的な展開がもたらす社会全体の脳化とか、夢見る骸の天界ルートとか、社会への反逆だとかいった考えが出てくる。全部理解するための道具なのだが、こういうことすら集ストの手段として使用されることになる。
妨害などある中で集ストについて語るのは凄く面倒だし、自分や他人を助けるためとはいえ、何故私がそこまでしなくてはならないのかという気持ちから、むしろみんなやるようになればいいとすら考えていました。
私の仕事じゃないという気持ちからです。私がわざわざ時間をかけて努力しなくても、警察とかに頼めば理解してもらえて、対応されれば良いわけですからね。
けれども、よく考えれば、こういう考えは誘導されたもののようにも思います。私の行動を先回りして言われることで、私自身はそうしたく無くなるというか。何度もそういうことがあったんです。若いころ、人間の多様性のために個性的な人間にならないといけないと思ったんですが、それと似たようなものですかね。まあ、そこまでではなくても、嫌いな人間から「アレをやれ」「君はこうする」などと言われれば、思い通りにさせまいと気持ちが働くものでしょう。私がどうして集ストに対する態度だけ異常なのかは、そういう経緯かと思います。
ネットやメディアなどで、私に「対抗しろ」と言っているかのような言説があって、私はそれが嫌で「なら、やらない」とか「勝手にやればいい」という気になる。そう学習されたので、そう誘導されたのかと思います。あるいは逆に、そう誘導されたので、そういう人間になったか。
一体なぜこんな白黒はっきりしているようなことについて「決着をつけてやる」と思い、戦わなければならないのかと苦痛を感じる。
しかも、相手は自分たちが悪いことを分かっていて、自己正当化のためにいろいろなことをいって取り繕うのだが、その理由は利益でも組織でもなく、単にそういうことができるからという事実だけに帰結するのである。
それを問題にするのは私が行うべき範疇の話ではなく、私がやるべきことは単に被害者面することだけなのかもしれないが、そもそもやるべきことがたくさんあって、構造も複雑化していく一方の現代社会において、こういう嫌がらせをわざわざ作り出して世の中をいちいち面倒にしていこうという気持ちは本当に理解できない。
いつも思っていることなのだが、集ストということも向こうが言ってきたことなんだし、シナリオを書いてあるのなら全部自分たちでやったらいいのではないかという気がする。こういう気持ちから社会における悪の効用だとか、人間性の全的な展開がもたらす社会全体の脳化とか、夢見る骸の天界ルートとか、社会への反逆だとかいった考えが出てくる。全部理解するための道具なのだが、こういうことすら集ストの手段として使用されることになる。
妨害などある中で集ストについて語るのは凄く面倒だし、自分や他人を助けるためとはいえ、何故私がそこまでしなくてはならないのかという気持ちから、むしろみんなやるようになればいいとすら考えていました。
私の仕事じゃないという気持ちからです。私がわざわざ時間をかけて努力しなくても、警察とかに頼めば理解してもらえて、対応されれば良いわけですからね。
けれども、よく考えれば、こういう考えは誘導されたもののようにも思います。私の行動を先回りして言われることで、私自身はそうしたく無くなるというか。何度もそういうことがあったんです。若いころ、人間の多様性のために個性的な人間にならないといけないと思ったんですが、それと似たようなものですかね。まあ、そこまでではなくても、嫌いな人間から「アレをやれ」「君はこうする」などと言われれば、思い通りにさせまいと気持ちが働くものでしょう。私がどうして集ストに対する態度だけ異常なのかは、そういう経緯かと思います。
ネットやメディアなどで、私に「対抗しろ」と言っているかのような言説があって、私はそれが嫌で「なら、やらない」とか「勝手にやればいい」という気になる。そう学習されたので、そう誘導されたのかと思います。あるいは逆に、そう誘導されたので、そういう人間になったか。
続き
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